2017年11月19日日曜日

K.175 ピアノ協奏曲(第5番)ニ長調

モーツァルトのピアノ協奏曲は彼の作品群の中でも輝かしいジャンルのひとつですが、17歳のこの時期にそのスタートとなる作品を書いています。
番号の付いている1番~4番はクリスティアン・バッハなど他の作曲家の作品に手を加えた習作的なもので、モーツァルトの実質的なオリジナルはこの作品が最初にあたります。
すでに後期の名作をも彷彿させるような完成度を備えています。
この第1楽章は4分の4拍子、アレグロ。協奏曲風のソナタ形式で、ギャラントな薫り高いものですが、それのみにとどまらず構成的にもしっかりした存在感を備えています。ここでは当時のフォルテ・ピアノによる演奏を聴いてみます。


ピアノ協奏曲(第5番)ニ長調 K.175/第1楽章 Allegro (フォルテ・ピアノによる演奏)

<写真>ザルツブルク タンツマイスターハウス(モーツァルトの住居)
この曲を作曲した頃、モーツァルト一家は手狭になった生家から、この家の2階に引っ越しました。この建物は没後200年を期に再建されたもので、その際は世界中から寄付を募りました(不肖、私も少額の寄付をさせていただきました)。現在はモーツァルト博物館になっています。

余談
モーツァルトはこの作品に愛着をもっていたようで、ウィーン時代の1782年には作品の一部に手を加え、さらに第3楽章をウィーン風に書き直した「ロンド K.382」を使う版も残されています。

2017年11月14日火曜日

K.174 弦楽五重奏曲(第1番)変ロ長調

引き続き1773年、モーツァルト17歳の時の作品を聴いてみます。
この年は非常に多作で、弦楽四重奏曲、交響曲をはじめ他の作曲家の作品に触発されながら、モーツァルトは新しい音楽の可能性を探っていた時期だともいえると思います。
この弦楽五重奏曲はミヒャエル・ハイドン(有名なヨーゼフ・ハイドンの弟)の最初の弦楽五重奏曲に触れて、同様の編成の作曲を試みたものと思われます。
この年の春に書き始めて、ウィーン旅行から帰ってきてからハイドンの2番目の五重奏曲を知って、さらに書き直し12月に完成しました。
この曲を書いてから次の弦楽五重奏曲(K.515)を作曲するのは、実に14年後の1787年になります。この1曲だけポツンと何の目的で書かれたのかは不明です。
ここで聴く第3楽章はメヌエットで、へ長調のトリオが書き直しの際加えらました。


弦楽五重奏曲(第1番)変ロ長調 K.174/第3楽章 Menuetto ma allegretto

余談
最近ずーっとモーツァルトの10代の作品を聴いています。普段あまり聴く機会のない曲です。
この弦楽五重奏曲も2番以降は名曲の誉れ高い作品ですが、この1番は殆んど演奏会でも取り上げられません。しかし、モーツァルトの作品の成熟していく過程のスタートとして興味深いものがあります。

2017年11月11日土曜日

K.180(173c)「わがいとしのアドーネ」による6つのピアノ変奏曲

1773年のウィーン滞在中に、モーツァルトはサリエリのオペラの主題によるピアノ変奏曲を書いています。
サリエリは例のモーツァルト毒殺の伝説がありますが、当時のウィーンでは確固とした地位があり、優れた音楽教育家でもありました。この変奏曲のテーマとなったオペラ「ヴェネツィアの市 」は1772年1月に初演され、1773年の2月まで上演されていたといいますから、かなり人気があったようです。
このオペラの中のアリア「わがいとしのアドーネ」の主題によってこの変奏曲は書かれていますが、モーツァルトが自身のピアノの腕前を披露する目的で書かれたものと思われます。
全体は118小節のかなり長い曲になっていますが、手慣れた手法で親しみやすい変奏曲になっています。


「わがいとしのアドーネ」による6つのピアノ変奏曲 ト長調 K.180(173c)

<写真> 弥彦神社 もみじ谷の紅葉(11月6日撮影)

余談
サリエリは映画「アマデウス」での印象が強い人物ですが、イタリア出身の正統派の音楽家で、後にウィーンの宮廷楽長にまで出世します。教育家としてもベートーヴェン、シューベルト、リストなどを育てたといいますから、その手腕は並外れたものがあったようです。

2017年11月5日日曜日

K.173 弦楽四重奏曲(第13番)ニ短調

ウィーン四重奏曲の第6曲目は初期弦楽四重奏曲の中で唯一の短調で、有名なハイドン・セットのK.421と同じニ短調になっています。モーツァルトの23曲の弦楽四重奏曲の中で短調はこの2曲のみです。
作曲されたのはウィーン滞在中の1773年9月頃と思われます。アレグロ・マ・モルト・モデラート(アレグロだけど、非常に中庸なテンポで)の表記は父レオポルトによって書き込まれています。
ここで聴く第1楽章は2/2拍子、ソナタ形式で、第1主題は前打音のついた下行分散和音で、シンコペーションとオクターヴ跳躍によってとても個性的なものになっています。その後ユニゾンによる衝動的で不安定なモティーフが何度も繰り返され、内面的な揺れを感じさ、非常に緊張感のある密度の濃い作品になっています。


弦楽四重奏曲(第13番)ニ短調 K.173/第1楽章 Allegro ma molto moderato

<写真> ウィーン シェーンブルン宮殿の庭園

余談
このウィーン旅行の目的は、17歳になったモーツァルトの就職先を探すことでしたが、マリア・テレジアが権勢をふるい、ウィーン音楽界の重鎮達が鎮座していた環境では父の努力も実を結びませんでした。
モーツァルトの就職活動はその後も困難の連続で身につまされます。
そしてモーツァルトはこのニ短調の作品を書き上げた後に、再び弦楽四重奏曲を書くのは9年後の1782年のハイドン・セットまで待たなければなりません。