この曲はザルツブルク時代に書かれたピアノ協奏曲の中で、最も完成度の高い作品といわれています。
1776年12月から翌年の1月にかけてザルツブルクを訪れていたフランスの女流クラヴィーア奏者であるジュノムのために書かれたため、この愛称がついています。ジュノムについての詳しいことはわかっていませんが、かなり高い技量があったことが、この作品をみるとわかります。
それまでのピアノ協奏曲からは一線を画した斬新でより成熟した手法で書かれていて、この第1楽章では、冒頭でオーケストラが和音を奏でると、直ちにピアノが応答するという当時としては異例の様式で、この手法はモーツァルトの全ピアノ協奏曲中唯一のものです。
その後のピアノとオーケストラの楽想の受け渡し、掛けあいは以前の作品に比べて非常に緊密になっていて、見事な曲想を展開しています。
全体に愛らしく活力に溢れた魅力的な協奏曲です。
ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 「ジュノム」K.271 /第1楽章 Allegro
※カデンツァ:W.A.Mozart (この演奏は下の記事の小曽根さんの演奏ではありません)
◆余談◆
この曲を聴くと、2006年に小曽根真さんの演奏を初めて聴いた時の衝撃と感動がよみがえります。
その時の拙文を再掲させていただきます。
小曽根さんの演奏は今まで2回聴きましたが、今夜3回目のコンサートが待っています。どんなカデンツァが鳴り響くのか楽しみでなりません。
<再掲:当ブログの旧バージョン2012年の記事>************
2006年ラ・フォル・ジュルネ東京
モーツァルト ピアノ協奏曲「ジュノム」
小曽根真ピアノ独奏
このカデンツァは・・・モーツァルトへの冒涜?? 衝撃の小曽根体験。
このカデンツァは・・・モーツァルトへの冒涜?? 衝撃の小曽根体験。
「ジュノム」のチケットを取ったのは「この曲も生で聴いたことがないから聴いてみよう」という気楽な動機でした。恥ずかしながらその時には小曽根さんの名前すら知りませんでした。
当日会場に行ってみたら、なんか随分混んでいて、発売初日に予約した割には、随分後ろの席ではないですか。
プログラムを見たらピアニスト・・・ジャズピアニスト??? なんか場違いのところに来てしまったのかな・・・というやや後悔の念がよぎりました。一体どんな風にジャズピアニストがモーツァルトを弾くんだろう??
指揮棒が振り下ろされました。
オーケストラの前奏の後、すぐにピアノの演奏が始まりました。・・・・『ちゃんと弾いているじゃん。』いつもCDで聴いている心地よいモーツァルトのサウンドに酔いしれました。
しかし第1楽章のカデンツァが始った途端、一転して緊張が全身を貫きました。今まで聴いたこともない異質な音楽ではないですか。
カデンツァは結構長い時間続き、先に進むほど奔放なジャズを思わせる自由な演奏になって行きました。それはもう完全にモーツァルトの音楽世界ではありません。
・・・・・こんなモーツァルトは聴いたことがありません。
この演奏を受け入れるべきなのか、拒否するべきなのか、自分の中で葛藤していました。
そんな葛藤をよそに曲は進行し、長いカデンツァが終わり、モーツァルトの旋律に帰った途端、えもいわれぬ快感に包まれました。
「あー、モーツァルトに帰った・・・・。」
モーツァルトの音楽と、モーツァルトの世界とは異質のカデンツァが互いの特長を際立たせた融合の瞬間でした。
モーツァルトの音楽は美しい地上の緑であり花であり水の流れのようです。
小曽根さんのカデンツァは作曲者から許された自由な時間に、地上を離れてなんと大気圏外にまで遊びに行ってしまったのです。思いっきり遊んで無事に地上に帰還した時、飛行者は地上の美しさを再認識したのです。
私にとってとてつもない衝撃でした。
この大気圏外カデンツァは2楽章でも、3楽章でもイメージを変えながら演奏されました。
もうその頃には私の心はこの音楽を十分に受け入れ楽しむことができる態勢になっていました。
3楽章も終わりの頃、舞台の右上から演奏を笑顔で覗いてる大きなモーツァルトの顔が見えました。モーツァルトもこの演奏を喜んでいるんだとわかりました。
このカデンツァを受容できるモーツァルトの音楽は、驚くべき豊かな包容力に満ちています。
カデンツァは結構長い時間続き、先に進むほど奔放なジャズを思わせる自由な演奏になって行きました。それはもう完全にモーツァルトの音楽世界ではありません。
・・・・・こんなモーツァルトは聴いたことがありません。
この演奏を受け入れるべきなのか、拒否するべきなのか、自分の中で葛藤していました。
そんな葛藤をよそに曲は進行し、長いカデンツァが終わり、モーツァルトの旋律に帰った途端、えもいわれぬ快感に包まれました。
「あー、モーツァルトに帰った・・・・。」
モーツァルトの音楽と、モーツァルトの世界とは異質のカデンツァが互いの特長を際立たせた融合の瞬間でした。
モーツァルトの音楽は美しい地上の緑であり花であり水の流れのようです。
小曽根さんのカデンツァは作曲者から許された自由な時間に、地上を離れてなんと大気圏外にまで遊びに行ってしまったのです。思いっきり遊んで無事に地上に帰還した時、飛行者は地上の美しさを再認識したのです。
私にとってとてつもない衝撃でした。
この大気圏外カデンツァは2楽章でも、3楽章でもイメージを変えながら演奏されました。
もうその頃には私の心はこの音楽を十分に受け入れ楽しむことができる態勢になっていました。
3楽章も終わりの頃、舞台の右上から演奏を笑顔で覗いてる大きなモーツァルトの顔が見えました。モーツァルトもこの演奏を喜んでいるんだとわかりました。
このカデンツァを受容できるモーツァルトの音楽は、驚くべき豊かな包容力に満ちています。
ほんまに世の中桜満開の季節となりましてぇこの協奏曲の一楽章みたいにコロコロとぉモーツアルトが、いや世界がぁ微笑みかけてくらるような愉悦感をかんじますなぁもともとカデンツァは演奏者が楽興にのってJAZZでいうアドリブを聞かせる感じとちがいますか・・・小曽根さんの演奏はどんなだったか・・・以前ラプソデイ・イン・ブルーを弾いた山下洋輔さんは肘で鍵盤をたたいておられましたぁわしはモーツアルトと同じくらいJAZZが好きでしてなぁチャーリー・パーカーなんかええんやないか、とおもうてます。それにしてもこの曲一楽章は愉悦感にあふれた感じやけれど第二楽章は憂いをたたえた哀切を感じさせるとうな楽想に変わる感じでぇモーツアルトの対比の妙みたいなもんを感じたしだいでおます。
返信削除738fripp様
削除コメントありがとうございます。JAZZもお好きなようで、守備範囲が広いですね。
小曽根さんのカデンツァをモーツァルトの20番以降のピアノ協奏曲でやったらどうなるのかな・・・・?と考えたりもします。
コンサート情報を見ているとそういう演奏会もあるようです。是非また生で聴いてみたいです。とにかくJAZZ的なカデンツァを受け入れられるモーツァルトの音楽の懐の深さを感じます。
頻繁には更新できませんが、コメントよろしくお願いします。